2012.12.31

平清盛の人物像その2

 

本日は平清盛の人物像その2です。

日本人のDNAなのか、今ある物(事)を改良してより良い物(事)にするのは長けているのですが、残念ながら多くの日本人は新たに作り出すことは苦手のようです。

そんな中で歴史上の偉人で、例外的なのが私の中では清盛と信長と龍馬で、国と国との交易によって自国を富まそうという発想はありそうでなかなかありません。

それをこの番組では横へ横へと広げてと表現していたように思います。上へ上へと上りたがる私や煙とは訳が違います(意味違うじゃろ!┐(‘~`;)┌)

とここまで書きますとなんとなく成り上がりにありがちなワンマンな暴君を思い浮かべてしまいますが、清盛の家臣想いはつとに有名で、人心掌握術にも長けた経営者として大成するタイプと見ます。

例えば家臣が失敗をしても人前で叱責することはなく、後でこっそりと呼び出して叱ったといいます。

さらには家臣の家族が居合わせる前ではいつも家臣を立てますし、家臣が満座でギャグが滑って場が凍り付いても、わざと一人だけ大声で笑ってその場の空気を整えたといいます(空気清浄機じゃなくて空気正常器( ̄▽ ̄;))もしも清盛が私のブログを読んだら、大笑いしてくれたことでしょう^^;

きっと「平家は一蓮托生」という気運を盛り上げようとしたのではないかと推察するのですが、残念ながら今回の大河で家臣想いのシーンは見られず、「一蓮托生」を押し付けただけの印象だったのは残念です。

 

本日を持ちまして弊ブログ「平清盛」は最終回となります。1年間ありがとうございましたm(_ _)m

 

最新作八重の桜ぶろぐはこちらからどうぞ

 

 

 

2012.12.30

平清盛の人物像

 

昨年末に突然倒れてしまい、更新が滞ってしまいご無礼致しましたm(_ _)m

という訳で本日は30日に投稿予定だったこのブログの大トリ平清盛の人物像です。

初回の放送で頼朝は平家を滅ぼし浮かれる家臣に「平清盛なくして武士の世はなかった( ̄^ ̄)キッパリ!」と語り始めたので、てっきり最終回でそのセリフの回収があると思ってたのですが・・・なんとオチのない落語のようでした。残念!( ̄▽ ̄;)

ただ歴史上の人物好感度ではなかなか上位に入らない清盛ではありますが、頼朝のセリフは決して誤りではないと思います。

それどころかもしも旧態依然のマロ社会(マロが頂に立つ世^^;)がずっと続いていたならば、頼朝はおろか足利も愛知県出身の三英傑(信長・秀吉・家康)も歴史に残らなかったのはまず間違いないでしょう。

個人的には貨幣経済の流通も音戸の瀬戸の公共事業も厳島神社の整備や平家納経よりも(これらも一大偉業で凄いことなのですが)、清盛が実力で前例至上主義のマロ社会に風穴を開けて、政権を奪った事実そのものがすごいことだと思います。

もちろん摂政・忠通や後白河が清盛に急接近したこともありますが、決して政権を取れたのは偶然なんかではありません。

保元・平治の予戦は持ち前の武力で勝ち抜き(源氏は予選落ち( ̄▽ ̄;))決勝大会でも並み居る強敵(決勝はマロとの政策対決)に勝利して単独過半数の政権党(?)に上り詰めたのです(マロが頂に立つ世から武士が頂に立つ世にシフト)。

よく三英傑を表現する時信がついた餅を秀吉がこねて、家康が食った。なんてことを言いますが、その前では清盛が憑いたついた餅を頼朝がこねて、北条が食ったというところでしょうか?

 

平盛国の壇之浦ビフォー・アフター

 

本日は平盛国の壇之浦ビフォー・アフターです。

清盛が寸白で生死の境をさまよっていた時、寝ずの看病していた(-_-;)盛国でしたが、それが伏線だったのかどうかは定かではありませんが、史実では清盛が亡くなったのは盛国の屋敷とされています(魂は西行の所に行っていませんでしたが( ̄▽ ̄;))。

また盛国は明子(加藤あい)が生きてる頃、琵琶を習いに来ていた姫君とチラっとロマンスらしきものがありましたが、すっかり忘れていますが結婚していますし嫡男の盛俊もいます(残念ながら一度も出ませんでしたが)。

で盛国・盛俊父子は貞能や忠清と異なり、急に出家したりすることもなく( ̄▽ ̄;)平家一門と最後まで行動を共にしています。

結果盛俊は一ノ谷の戦いで戦死、盛国は壇之浦の戦いで捕虜となりました。せっかくここまで付き合ったのなら、海の中にもある都とやらにも付き合えば良かったのに。

やっぱ元漁師の性で海に飛び込んだけど、泳いでしまい捕まったのでしょうか?~☆★(>_<)\(-_-x)バキッ!漁師はこの番組のオリジナルじゃ!

結局盛国は宗盛と共に鎌倉に送られましたが、食を絶つというえらい地味な自害を遂げ( ̄▽ ̄;)、頼朝に「アッパレ!」と称賛されたそうです(宗盛は「喝!」)┐(‘~`;)┌

 

 

2012.12.28

伊藤忠清の壇之浦ビフォー・アフターその2

 

本日は伊藤忠清の壇之浦ビフォー・アフターその2です。

最大勢力の上総広常が平家に背くと、後は忠清の下に届くのは悪い報せばかりでした。

富士川の戦いの後は各地で反平家による反乱が相次ぎ、都にも倶利伽羅峠の戦いで平家を破った木曾義仲が攻め寄せて来ました。

こうなると豪の者として名前を轟かせた侍大将の忠清でも「ぼ、ぼ、僕はおにぎりが好きなんだな」では済まされません。~☆(>_<)\(-_-x)バキッ!それは裸の大将

結局平家一門は都落ちしますが、忠清は一門に従わず出家します。なんとなく忠清の出家はイメージが浮かびませんが、家出でないことだけは確かです( ̄▽ ̄;)ホウロウガカカヨ!

その後都を制圧した木曾義仲を排した範頼・義経が鎌倉に引き上げたスキをついて、忠清は発祥地の伊勢で「伊勢から日本を変えようではありませんか!」(^_^;)と反乱を起こします(三日平氏の乱)。

結局のところ忠清の出家は仏門に入った訳でもなければ 、放浪画家^^;になった訳でもなかったようです。

散々暴れ回って後白河を恐れさせたそうですが、やがて壇之浦で平家が滅びる頃とほぼ時を同じくして、平家&木曾義仲の残党狩りで忠清は捕らえられて六条河原にて斬首されました。

たけき者もついには滅びぬ、偏に風の前の塵に同じ・・・てか?

 

 

伊藤忠清の壇之浦ビフォー・アフター

 

本日は伊藤忠清の壇之浦ビフォー・アフターです。

富士川の戦いで忠清は浮き足立つ兵に「あれはみ・ず・・・」ズルっ!とヘタなコントのようでしたが(-_-;)、実際は忠清が撤退を進言したという説もあります。

それによりますと番組のように清盛は激怒して死罪を言い渡していますが、戦わず逃げ帰ったためでもなければ、まして「殿はもう武士じゃねぇ~!」と裸の王様発言に腹を立ててということではありません( ̄▽ ̄;)

実は忠清は治承三年の政変の後、坂東八ヶ国(関八州?)侍別当に任じられたからだと思います。伊東祐親は捕らえられ、大庭景親は行く手を阻まれ動けず、その他大勢^^;は頼朝に靡いて戦いにならないことを責めたのだとか。

また番組で上総広常(高杉亘)は遅参した上、下馬しない非礼に頼朝に「去ね」と言われましたが、実はこれには伏線があって、忠清と一悶着あった広常は息子をお詫びにわざわざ京に向かわせています。

ところが忠清はこの息子を拘束してしまったのです。それで広常はすっかり平家及び忠清に不信感を持ってしまったので、頼朝の品定めに無礼な態度を取って参上したという訳です。

つまり頼朝が取るに足らないヤツなら頼朝のクビを土産に(そんな物騒なモノよりオイラなら土産はメロンがいいですが^^;)恨み辛みは忘れて平家に今まで通りご奉公(二股戦略)。ところが武士の礼節を重んじる態度に、コイツは自分だけ良ければいいという忠清や平家とは違う!となってしまったのでした。

結局のところ忠清の軽率な行動が関東の勢力地図を大きく塗り替えるきっかけになってしまったのです。ただし番組でもあったように清盛の一時の感情だっただけのようで、盛国の取り成しで忠清は死罪を免れることになりました。

 

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